マタニティ・ハラスメントの真因を考える(後編)

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「不快感」という大義名分

昨今の世の中では弱者保護といっても一括りに論じることは難しくなっています。弱者として受けていた公的サポートが既得権益化している問題があったり、公的サポートを受けるが故に、現状を改善する努力を怠ってしまったりといった問題は確かに存在しています。「平等とは何か」「個人としての努力義務と責任は問われないのか」という、社会全体で考えなくてはならない哲学的な問題です。

しかし、最近の日本社会では善悪や公正さよりも、「好悪」や「快・不快」といった感情的な基準で弱者・強者を決めつけている感が強く見受けられます。これが顕著に表れるのが芸能人の発言に対する炎上です。女性芸能人が結婚や出産などで少々浮かれて惚気(のろけ)ようなら、すぐさま同性からの「売れ残らずに済んだ、なんて女性を物として見ている!」「子どもを授からない人の気持ちに配慮していない!」などの雑言がネット上に溢れます。

別にクレームを入れている人と芸能人の間に立場の強弱はないのですが(むしろ圧倒的な攻撃にさらされる芸能人のほうが弱者なのではないかとも思えてくるのですが)、ともかく不快な思いをした人が「弱者」として公然と批判する権利を獲得してしまう。この一般的に恵まれた立場に置かれる人が、そうではない人から非難される構図はマタニティ・ハラスメントにも通ずるところがあります。

 「支え合い」は行政に任せた?

一昔前の「お互いさま」「支え合い」という共同体意識が希薄になっている社会においては、必要とされるサポートは国や行政などに任される傾向が強くなってきています。言うまでもなく、そのサポートの原資になっているのは国民が等しく納めている税金です。それゆえ、サポートを受ける人に対しては「我々の税金で面倒を見てやっている」という意識が芽生えやすく、サポートを受けるべき人には「国や行政が面倒を見てやっているのだから、我々は関係ない」と無関心になりやすい傾向が生まれます。

保育園の入園問題や生活保護などもそうですが、「お互い様の助け合い」意識が希薄になればなるほど「人助けは公共のやること」になり、「税金でサポートしてもらっているので良いだろう」という感覚が次第に受益者と負担者の不平等感につながっていきます。

特に最近は「子ども嫌い」をわざわざ公言する人もいるように、社会全体で次世代を担う子どもを温かく見守ろうという共通理解も崩れ始めています。しかし、裏腹に「子どもを産みたいけれど、種々の事情で産めない、育てられない」というケースも増えてきています。そのような意識の変化が「なぜ妊娠しているからと言って我々が特別扱いしなければならないのか」という風当りにつながっていきます。

 ネット空間の「お互い様」感覚

それでも、一昔前は「内心不満に思っているとしても表に出さないのが大人の態度」という共通認識が存在していましたが、ネット空間で自由に(ほとんど匿名で無責任に)思ったままの意見を表出してしまう世の中になってしまうと、自己の感情発現に抑制が効きづらくなってしまいます。結果、以前であれば腹の中で収めていたことを、深い思慮なく表に出し、その影響を顧みない人が増えることになります。

実生活の共同体での「お互い様」という感覚は薄れてきている代わりに、ネット空間での「やられたらやり返せばよい」という悪い意味の「お互い様」が表にでてきている。しかし、リアルの社会では実際にやり返してくる相手には手を出すことはなく、安心して攻撃できる相手にしかその敵意が向けられることはありません。

妊娠している女性に対しては、反撃に合う心配もなく、かつ「妊娠できない女性もいるのに」「妊娠したのは自分たちの勝手だ」という個人間では直接関係のない大義名分がネット上では幅を利かせているため、自分の感情を精査することなく(正当化する手順すら省いて)表に出しやすくなります。そこには「思いやり」や「いたわり」という人としての理性は介在していません。おそらく、ネット上での言論でもあまり「思いやり」「いたわり」という配慮に重きが置かれてこなかった背景が影響しているように感じます。

 終わりに

今回はマタニティ・ハラスメントの中でも職場などでの不利益な扱いを強いられるというケースではなく、公共の場でのマタニティ・マークに向けられる厳しい視線についてとり上げていますが、「妊娠している女性への不理解と不寛容」という根っこの部分は同じです。

妊娠している女性が大切に扱われることに対しての不公平感の根底には、①「弱者へのサポートは行政がやるべき」というお互い様精神の希薄化、②他者に気を使うことが自分の不利益に感じてしまう社会の不寛容さ、それに加えて、③個人的な不快感を表層に出してしまうことを厭(いと)わない空気が真因にあると思います。

確かに「お互いさま」という意識が薄れた昨今においては、自分より優遇された環境にある人を見ると、とりわけ自分が不利益に扱われている感覚に陥るのはよく理解できます。それは妊婦であり、子どもであり、障害者であり、高齢者であったりします。いろいろな考え方はありますし、財政支出の配分など政策論で言えばよく議論しなくてはならないものもあります。

しかし、社会的負担などの観点は一度置いておいて、眼の前にいる「尊重されるべき存在」に温かい気持ちで接することが、理性的な人間として最も自然な姿であると思います。個人的な不満は腹の中に収めて、社会全体で次世代を担う子どもたちを受けいれる。世の中でもっと、マタニティ・マークをたくさん見かけるような社会になってほしいと願います。

ちなみに、マタニティ・マークは不慮の事故や体調急変などの際に、妊娠中であることを伝える大事な役割もあります。厚生労働省や自治体は、当面そちらの機能のほうも強調して、妊婦の方が身に着けやすい環境づくりを目指したほうが良いかもしれません。

 

最後に申し添えますと、不妊に悩んでいる方へのケアの必要性はよく認識しており、そのサポートにも取り組んでいます。しかしながら、だからと言って「妊娠できない人もいるのに」と他者に怒りを向けることは、間違っています。そのような気持ちになることは察しますが、それは自らを貶める行為であり、何の解決にもつながらないばかりか、妊娠していることをはばかるような世の中にしてしまいます。

妊娠を望む方々も、社会がサポートしていかなくてはいけない存在であることには変わりありません。その意味で、妊娠されている方も、不妊治療をされている方も同様に「優遇されるべき存在」です。マタニティ・ハラスメント問題を考えるうえで対立する立場ではなく、共闘していく立場のはずと考えておりますことを、ご理解いただけたらと思います。

G30

G3030代地方議員

投稿者プロフィール

現役の若手地方議員。世の30代男性と変わらない漠然とした不安を抱えながら公務に携わっている。「匿名ならちったぁ面白いことを書けるのではないか」と見込まれてライター陣に誘われる。気弱だが保守系だ。

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