「国民の声」に関するモヤモヤを考察する(後編)

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潮が引いたような静寂

参議院で安全保障関連法案は可決され、法律として成立しました。60日ルールに備えていた衆議院もようやく会期を終え、国会はひとまず閉会となりました。安倍総理は自民党総裁として再任され、内閣改造に着手、国会議員は各々の地元に散っています。

永田町はいっときの静寂を取戻し、これからしばらくすると来年度予算編成に向けての駆け引きや調整が再び熱を帯びてきます。

国会前の喧騒も鳴りを潜め、大学の後期課程の開始とともに若者も日常生活に戻っていきました。憤る若者に熱視線を送っていた老境や労協の「元若者」も、潮が引くように永田町から姿を消しました。今年は5連休となったシルバーウイークは、日本が平和であることを再認識させるに充分な時間でした。

 

「反対ではあるものの…」

安保法制の審議過程や内容には多くの方がしっくりきていないのが現実だと思います。政策的な妥当性や必要性については、いずれこの記事でも書きたいと思いますが、「その必要性は何となくわかるけれど…」という感覚は少なくない方が払しょくできていないと思います。それがいわゆる「説明不足」という声で代弁されているのではないかと思います。

ただ、だからと言って国会前に集まった彼らの声がそういったモヤモヤしている国民から喝采を浴びているかというと、そうとも言えません。「安保法制には反対だけど、彼らとは一緒にされるのは何か違う」という方も一定程度いるのが実際のところです。

これは対する安保法制賛成派にも似たようなジレンマを抱えている部分があり、自公政権の進め方の瑕疵や、対米従属への不安、憲法改正との兼ね合いや整合など、集団的安全保障体制の構築の必要性は理解しつつも、やや消極的な賛成派の方としては「全面賛成派とは違う」という気持ちがあるでしょう。

その意味では「説明不足」というカテゴリーには「消極的賛成」「消極的反対」「よくわからない」という複数の態度が包含されている気がするのですが、安保法制絶対反対のメディアとしては、批判的なニュアンスを強調できる「説明不足」にまとめてしまったほうが都合もよいのでしょう。

 

アジテーターは代表者ではない

メディアが若者代表として持ち上げている学生団体SEALD’S。彼らをはじめとして、日本各地で老若男女が安保法制反対の声を上げました。しかし「学生」「主婦」「母親」という肩書で取り上げられた彼ら、彼女らが、実際にそれぞれの階層を代表しているのか、というところには幾分引っかかるものが残ります。

本当に一般人なのか(単に活動家の学生だったり、結婚して夫がいる革労協だったり、出産して子どもがいる日教組というだけじゃないのか)という胡散臭さ、何となくあのノリが「ふつうの人」から乖離しているのではないか、という形容しがたい違和感です。

単に安全保障問題への意見表明ではなく、ふつうに社会で生活している中では目にすることのない剥き出しの敵意。自作のラップに乗せた罵詈雑言。紅潮し異常に力んだ口元、憎悪に燃える視線。そんな集団を統率するあの独特の太鼓の音色。

 

社会では許容されない暴力の発露を感じさせる集団を国民の代表として扱われることが、どうしても腑に落ちない安保法制反対派も多かったはずです。

そもそも安全保障関連法案には「暴力で物事を解決するべきではない」「武力による解決は憎しみの連鎖を生む」「敵意や殺意を向けられたくないし、向けたくない」という自己の良心に基づいて反対している人が一般的な国民の中では多数を占めていました。

そんな人々から見れば、暴力的な言動や行動、剥き出しの敵意を目の当たりにすれば、「法制には反対だけど、こんな暴力的な人たちと同じ感覚ではない」と感じるのも無理はありません。比較的冷静で論理的な持論から反対している方々から見ても同じです。

国際政治や近現代の歴史に明るい方であれば、「ナチス」「ファシスト」と政権を批判している彼らの中に、革命という名のもとに暴力を肯定した「スターリン」「毛沢東」など「マルキスト」の臭いを感じ取ることでしょう。

安保法制反対デモの先頭に立っていたのは決して国民や若者の代表ではなく、ラップで、太鼓で、罵詈雑言で、場の雰囲気を盛り上げているだけのアジテーター、「扇動者」です。

安保法制に反対の意見を持っている多くの方も、彼らに扇動されてそのような意見に到ったわけではなく、自己の意志や良心から反対の立場をとっているだけで、SEALD‘sの学生も国民の代表者として世論を形成したり先導したりするほどの存在でも、象徴でもありませんでした。

 

稚拙な感情論を持て囃すマスコミの愚

しかし、60年安保や70年安保で革命を夢見て暴力に明け暮れた世代からすると、彼らは自分たちの若かりし頃を正当化してくれる眩しい存在であり、現在に甦ったノスタルジーでした。「若者が声を上げた」と持て囃すマスコミは、腹の中では「若者は声を上げない」と馬鹿にしており、自分たちの都合の良い内容か、飯のネタになること以外は若者の声に耳を閉ざしているに過ぎません。

少なくない若者の「あんな理論的でなく感情的でみっともない連中を若者の代表扱いしないでくれ」という声は取り上げられず、自分の好みであれば中身に関わらず「若者が声を上げた!」とはしゃいで見せる。そんなマスコミの姿を見ていれば、馬鹿らしくなって口出ししなくなる若者ばかりになっても不思議はありません。

現実にはただの左翼活動家の学生に過ぎないのに、デモ隊の若者たちは「甘く見るな!」などと叫んでいるのを見てもわかるように、異常に軽んじられているという被害者意識を持っていました。これもデモやらハンストやらを勝手に繰り返しているうちに、「自分たちの意見が聞き入れられないのは軽く見られているからだ」という自己肥大意識が育ってしまっているからで、これもマスコミが「若者の代表」などと持ち上げたために自らを見失わせる結果になりました。

賛否が分かれている議論において「国民の声」や「○○の代表」という場合は、それなりに納得のできるオーソライズが必要です。それを無視して、自らの主張を誰かに代弁させ、それを一般人として普遍化していく手口。それが見え透いてしまうことが「方向性は一緒だけれど、一緒にはしないでほしい」という憤りと、理屈ではない剥き出しの敵意の発露への違和感という、モヤモヤを生んでいるのだと思います。

G30

G3030代地方議員

投稿者プロフィール

現役の若手地方議員。世の30代男性と変わらない漠然とした不安を抱えながら公務に携わっている。「匿名ならちったぁ面白いことを書けるのではないか」と見込まれてライター陣に誘われる。気弱だが保守系だ。

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